宇喜多興家墓所

付近住所 岡山県瀬戸内市長船町福岡684 妙興寺


 宇喜多能家(砥石城主)は、天文3年(1534)、同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲を受けて城を枕に自害した。子の興家は、当時6歳の八郎(後の直家)を連れて備後の鞆へ落ちのびたが、ほとぼりのさめたころ備前福岡に戻り豪商阿部善定のもとに身を寄せた。
 興家は、やがて善定の娘との間に二児(後の忠家・春家)をもうけたが、不遇のうちに天文5年(1536)この地で病死した。法名を露月光珍という。
 八郎は、阿部善定や尼となっていた叔母(下笠加大楽院)の保護のもとに、少年時代をこの地で過ごした。